元号 年号から読み解く日本史
新元号「令和」が決まって
新しい時代に変わるのだなあと思いつつ、
同時に元号の歴史について興味を持ちました。
そこで今回読んだのがコレです。
所功、久禮旦雄、吉野健一『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年)
この本を読むと、元号の長い歴史を垣間見ることができます。
元号の始まり
日本の公式の元号は「大化」から始まります。
学校でも習った大化の改新の「大化」です。
大化以前は干支(十干と十二支の組み合わせ)を年号として使用してきました。
「独自の年号を建てることによって改新の思想(意気込み)を示した」
と考えられています。(『元号 年号から読み解く日本史』p.58)
そして同時期には、皇極天皇から孝徳天皇への譲位が執り行われています。
1300年以上前にも譲位が執り行われていたと考えると、皇室の歴史の長さを改めて感じますね。
改元の種類
改元の種類は、代始改元、瑞祥改元、革年改元、災異改元があります。
特に奈良時代に多く行われています。
革年改元は「辛酉」や「甲子」といった厄年に行われる改元です。
災異改元は災害が起きた時にさらに災害が起きないよう願う改元です。
平安時代以降、頻繁に行われるようになります。
まとめると改元は、
- 天皇の代替わりのため
- それ以外は縁起を担ぐため
行われてきたと考えられます。
時の政治に左右される改元
改元は時の天皇の一存で決まるのかと思いきや、意外と手続きが煩雑です。
大まかな流れは以下の通りです。
院政が強い頃は上皇が介入し、武家社会の頃は幕府の審議が間に入ります。
例えば院政期は改元の手続きが終わった後、公卿たちは白河上皇の居所に参上しています。
南北朝時代では、北朝と南朝それぞれで別の元号を使っています。
室町時代の足利義満は元号に「洪」の字を使うよう求めましたが退けられ、元号は「応永」に決まりました。
その結果、義満は自分の意図した元号が使われなかったため、「応永」からの改元を渋りました(応永は35年間)。
江戸時代の幕末、朝廷は「令徳」を新元号の案として幕府に伝えましたが、幕府側は「徳川に命令する」としてもう一つの案として「元治」を返しました。
このように元号は時の政治の影響を受けながら決まります
一世一元が定着したのは明治から
これはかつて平安時代の「延暦」~「天長」の期間にありました。
しかしあくまで偶然の結果であり、以後は天皇一代につき複数の元号がありました。
一方で頻繁に改元することには、江戸時代中期から批判的な意見がありました。
明治時代になり岩倉具視が主導し、一世一元が採用されました。
その後、一世一元は皇室典範に明文化されました。
そして皇室典範制定の10年後、改元の手続きを細かく決めた登極令ができました。
あくまで私の考えですが、一世一元が採用された当時の背景として、新しい制度を次々に導入していった明治の時代に、頻繁に改元する余裕はなかったのではないかと思います。
昭和の元号法制化運動
実は敗戦後、現行憲法の起草と同じ時期に「元号法」の案も起草されていました。
しかし、GHQのケージス民政局長代理から「昭和の元号を事実上使うことには反対しないが、元号の法制化は承認できない」と伝えられ、国会に提出することができませんでした。
しかし慣習として「昭和」の元号は使うことはできたため、敗戦後も公的文書に使われました。
日本が独立を回復した後、「明治」改元から100年たった昭和43年以降、元号に一般大衆の関心が高まりました。
昭和53年には内閣法制局の角田礼次郎第一部長(当時)が「陛下に万一のことがございましたら、昭和という元号がその瞬間をもって消える、言い換えれば、空白の時代が生まれる」と発言しています。
これを聞いた民間の人々が「元号法制化実現国民会議」を結成し、全国各地で元号法制化を働きかけました。
最終的に多くの世論に支持されて、昭和54年に元号法が制定されました。
元号法制定までの動きをみると「草の根運動」の感じが強いですね。
最後に
私たちが普段何気なく使っている元号ですが、調べてみると長い歴史を経て今に繋がっていることがわかります。
改元を機に、皆さんも元号について調べてみてはいかがでしょうか。
きっと色々な発見があると思います。