本当は怖いフランス革命

フランスと言えば革命

革命って聞くとなんだか響きがいい

ベルサイユのばら』の営業もあってか

そう考える人も多いと思います。

 

通説では

フランス革命は王の圧政を人民が革命によって打倒し、

「自由」、「平等」、「博愛」の

民主的で人権が保障された共和政フランスを打ち立てた、

人類史に残る偉大な出来事だ。

とされています。

 

しかし、史実のフランス革命はどうだったのでしょうか。

調べてみると、革命の実態は恐ろしいものでした。

フランス革命は世にも危険な出来事だったのです。 

 

 

フランス革命が危ない理由

フランス革命が危ない理由は次のとおりです。

  •  善政を敷いていた国王を処刑
  • 恐怖政治により人々が次と粛清
  • フランスは革命後も争いの絶えない不安定な国へ
  • 革命の実質的な収束は150年以上後

一つ一つ見ていきます 。

 

 善政を敷いていた国王を処刑

名君ルイ16世

 

当時国王だったルイ16世は名君でした。

彼は民衆の信頼が厚い財務長官ネッケルを重用し、

王室財政の簡素化に取り組みます。

 

アメリカ独立戦争に対応するため、

庶民への増税無しに海軍を増強。

さらに革命期には、

 「地主の土地を庶民が買い上げる」法案に対して、

買い戻しにより結果的に庶民のためにならないと、

問題点を指摘。

  

庶民思いの君主でした。

 

一院制による悲劇 

しかしフランス人は名君をギロチンに送ってしまいます。

「国王万歳」と叫びながらルイ16世を拉致し、

議会の可決によって処刑を決めていしましました。

当時の議会は一院制のため、一度決めてしまうと再審議できません。

これが一院制の問題点です。

 

現在多くの国で二院制が採用されている理由は、

この時の反省が元になっています。

フランス人は一時の多数決によって、

取り返しのつかないことをしてしまいました。 

 

恐怖政治により人々が次々と粛清

フランス革命は「僧侶&貴族vs.金持ち」の争い

当時、政治に参加できる人は都市部のお金持ちだけでした。

彼らは第三身分と呼ばれます。

第一身分は僧侶、第二身分は貴族です。

 

フランス革命では第三身分の人が、

第一身分や第二身分相手に戦うところから始りました。

つまり構図は

「僧侶&貴族vs.金持ち」

です。 

実はフランス革命は、

「国王&貴族vs.庶民」

の革命ではなかったのです。 

 

ロベスピエールの恐怖政治

革命の混乱の中で台頭していったのが、

ロベスピエール率いるジャコバン派です。

ロベスピエールは革命に協力的でない人々を次々と処刑。

彼がしていることは、まさに恐怖政治そのもの。

 

彼はそれまでの暦を廃止して、

革命暦を新たに制定します。 

革命暦は、1年を360日、1ヶ月を30日、1週間を10日

としています。

生活はさらに混乱を極めました。

結果的にロベスピエールは、

クーデターによって逮捕、処刑されてしまいます。

 

革命による大混乱

当時のフランス国民の85%は農民です。

農村では革命が起きると。

貴族や第三身分の土地を奪うようになりました。

結果、第三身分は特権階級だけでなく、

農民とも争うようになります。 

 

「国王万歳」で始まった革命が、

いつの間にか国王を処刑。

さらに、

「自分たちの言い分を通す」、「特権階級から財産を奪う」

ことを目的に行動した第三身分が、

いつの間にか地方の農民と戦う。

フランスは大混乱になりました。

 

フランスは革命の後も争いの絶えない不安定な国へ

国の仕組みがコロコロ変わるフランス

ロベスピエールの台頭の後、

軍人のナポレオンが台頭します。

周辺諸国フランス革命を潰そうと戦争を仕掛けますが、

ナポレオンに撃破されます。

しかし、最終的にナポレオンは敗れ、王政が復活。

 

ところがその後のフランスは、

国の仕組み(政体)が次のようにコロコロ変わっていきます。

 

王政(ルイ18世

帝政(ナポレオン3世

第三共和政

ヴィシー政府(ナチスドイツによる占領)

第四共和政

第五共和政

 

1814年のウィーン会議から1959年のドゴール大統領就任まで、

145年の間に6回も政体が変わりました。

 

政体が変わって困ること 

政体が変わると争いが絶えなくなります。

例えば、土地の権利を認める権利書があったとします。

通常は一つの土地に対して政府は一つの権利書を発行します。

しかし、革命によって政府が3度変わった場合、

権利書は3つになります。

こうなると、どの権利書が正当なのか争いが勃発。

どれも正しいものだからこそ、

当事者は最終的に力による解決を図ります

国の仕組みを一度変えてしまうと、

その反動も大きくなってしまうのです。

 

ちなみに日本では同じことは起こりませんでした。

王政復古の大号令では、摂関政治と幕府を廃止しました。

しかし、その時点で存在している法体系は認めています。

これができる理由は天皇がいるためです。

政府が変わっても、

天皇が国の権力者を認めるの仕組み(政体)は変わっていないため、

法体系を認めることができます。

 

激化する政争 

政体が変わりやすいと政争も激化します。

例えば第三共和政

このときは、大統領と議会と内閣のそれぞれが権力を持ており、

まとめる人が誰もいない国の仕組みでした。

結果、1871年の成立から1940年のナチスによる占領まで、

70年間で大統領14人が就任。

そのうち任期満了は4人のみ、2人は暗殺。

さらに内閣は110代が入れ替わり、

3年続いた内閣がありませんでした。

 

第三共和政は、常に政争が起こる仕組みでした。

このように国が不安定になった諸悪の根源は、

革命によりルイ16世を処刑してしまったこと、

です。

 

革命の実質的な収束は150年以上後 

不屈の男シャルル・ドゴール

第三共和政は1940年にナチスドイツに負けて終焉します。

ナチスは傀儡政権としてヴィシー政府を作りました。

そのナチスからフランスを解放したのが、

軍人のシャルル・ドゴールです。

 

ドゴールはロンドンで亡命政府を作り、

ラジオ放送でレジスタンスに激を飛ばします。

自身も亡命政府の代表として、連合軍と共に戦います。 

実態はアメリカ軍に頼りっぱなしでした。

しかし、ドゴールはお構い無し。

あくまでフランス人がフランスを解放したことに拘りました。

自分たちがフランスを取り戻したという事実を残すためです。

 

 革命の収束

大戦後、第四共和政が敷かれます。

この政体もまた政争が止まらず不安定。

12年の間に21代の内閣が交代しました。

この間にフランスは植民地や海外領を次々と失っています。

 

この混乱を治めるために、

ドゴールは再び立ち上がります。

彼は大統領の権限を広範に認めた憲法改正を政治家に要求。

 結果、1959年に第五共和政が誕生し、

ドゴールは初代大統領に就任しました。

その後フランスでは、大きな政争や政体の変更が起きていません。

フランス革命以来の大混乱は、

ドゴールが作った第五共和政によって収束したのです。

 

最後に

「革命」という言葉を聞くと、

「新しい時代の幕開け」のような、

いい意味で捉える方がいるかもしれません。

しかし現実の歴史では、

革命によって取り返しのつかない混乱が起きています。

フランスは革命の混乱から脱するまで、

150年以上の時間を要しました。

 

フランスの歴史を調べてみた結果、

「革命」という言葉に条件反射せず、

歴史に学んでいくのが大切だと思いました。

 

参考

倉山満『嘘だらけの日仏近現代史』(扶桑社、2017年)