間違いだらけの織田信長のイメージ

織田信長

日本人なら一度は聞いたことがある人物ではないでしょうか。

信長は、今の愛知県出身の戦国時代の武将です。

天下統一を果たそうとしますが、家臣の明智光秀本能寺の変を起こし、

その夢が絶たれてしまった人物です。

 

皆さんは、信長についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。

強い、天才、革新的、といったイメージをもつのではないでしょうか。

しかし歴史学者から見ると、信長は上記のイメージとは違った人物なのだそうです。

 

 

ドラマで描かれる織田信長

・時の権威に歯向かった人物として描かれる

室町幕府を滅亡させています。

 

・強い戦国武将というイメージ

今川、朝倉、浅井、三好、武田など名だたる武将に勝っています。

 

・革新的な人物として描かれる

鉄砲を使った戦術と貨幣経済に注目しました。

 

・怖い武将

信長は京都に初めて出向いたとき、狼藉を働いた部下の手を切っています。

さらに比叡山を焼き討ちするなど、寺社勢力に強い態度で当たっています。

 

実際の織田信長

権威を使いまくった武将

信長は尾張国(地元)をまとめるために、時の大名である斯波氏の権威を使います。

 

足利義昭(前将軍の弟)が謀反人討伐を命じた時、信長は美濃国岐阜県)の齋藤龍興に邪魔をされます。

そこで信長は足利将軍家の権威を使い、大義名分を得て美濃国を攻めています。

 

実は信長は、自分より上の立場の人の権威を使いまくる人物だったのです。

これは「大義名分」を大事にすることでもあります。

いつ敵に攻め込まれるかわからない戦国時代。

相手に因縁をもたれないよう「大義名分」が重要であることがわかります。

 

ちなみに、信長は「室町幕府を滅亡させ人物」として知られています。

時の将軍である足利義昭を京都から追放したのが理由です。

しかし「将軍が京都を出る」が滅亡の定義であれば、

室町幕府は19回滅亡していることになります。

実は室町時代は、戦いや政変によって将軍が京都を出たり入ったりしている時代なのです。

 

戦いに弱い武将

1560年、信長は今川義元に攻め込まれます。

桶狭間の戦いです。

わずかに集まった兵で奇襲した結果、勝ちました。

しかし後年の信長は、桶狭間の戦いのようなやり方はしていません。

まぐれだったのが自分が一番分かっていたのかもしれません。

 

1572年、武田信玄の策略により、信長は周辺の武将・寺社勢力に包囲されます。

武田信玄三方ヶ原の戦い徳川家康を破り、信長の本拠地に迫ります。

絶対絶命です。

このとき信長は、寝ないで働いたそうです。

次に予想外のことが起きた時に備える、そして弱いところから攻めました。

足利義昭朝倉義景浅井長政と順番に各個撃破していきます。

同時に信長はものすごく動き回って、危機に対処したとも言えます。

ただし織田軍自体は弱いです。

長島の戦いでは、一向宗の信者相手に包囲しながら殲滅させられたと言われています。

 

1577年、今度は上杉謙信を中心として周辺の武将・寺社が信長を包囲します。

謙信と戦った手取川の戦いで、織田軍は一方的にやられたそうです。

夜間に攻め込まれたため、自慢の鉄砲も使えません。

謙信のあまりの強さに、信長自身も安土城から出てこれませんでした。

信長は朝廷の権威にすがり、事態を打開しようとします。

 

革新的な人物でなく努力の人

信長の有名な戦い方は鉄砲を使った戦術と言われています。

武田勝頼と戦った長篠の戦いでは、鉄砲3000丁を使ったとされています。

しかし実態は、8時間もの激戦で死傷者が多く出たと言われています。

織田・徳川軍のワンサイドゲームになったわけでなく、

武田軍の武将に相当数を返り討ちにされています。

結局、信長が武田家を滅ぼすのはそれから7年後。

信長は自軍の弱さが分かっているから、深追い出来なかったとも言えます。

 

信長の革新性で言われるのが貨幣経済の導入です。

実は信長が貨幣にこだわった理由は、単純にお金が足りなかったためです。

信長は大名や将軍、朝廷の権威を利用するために、

多額の政治献金が必要だったのです。

またお金で人を集めなければいけないほど、

兵隊が弱かったのです。

貨幣経済の導入は、自分が弱い故に努力した結果とも言えます。

 

このように信長は天才ではなく努力の人なのです。

前述の 武田信玄によって包囲網されたときも、

信長はあらゆる努力して危機を乗り切っています。

 

会社の経営者のような人

信長は非情な人物のように描かれます。

上洛したときに狼藉を働いた部下の手を切っています。

しかし、この時の信長は財産の3倍の借金をしてまで上洛しています。

部下の狼藉によって上洛のチャンスを逃しては、

元の子もありません。

「部下の手を切った」ことから、信長の本気度が伺えます。

 

会社で例えると、信長は社運を賭けたプロジェクトの最中。

そのときに末端社員が不祥事を働いたため厳重に処罰した、

と考えることができます。

信長は経営者として考える人だと言えます。

 

自分の手を汚さず敵とつるむ敵が嫌いな人 

信長は延暦寺を焼き討ちしています。

これは、信長が残忍と思わているエピソードの1つです。 

しかし信長は、何度も退避・中立勧告を延暦寺に行っています。

実は、延暦寺は女性や子供を戦場に置いて、

「人の盾」にしようとしていたのです。

本来逃すべき人たちを戦場に置いているのは、延暦寺の責任です。

それでいて延暦寺、中立を言いながら信長の敵に加担しています。

 

信長は自分たちは手を汚さずに敵と画策し、

いざとなれば宗教を理由に、信者を盾にして逃げる寺社勢力が嫌いだったのです。

 

 まとめ

信長は天才ではなく凡人です。

史実を見ると、信長は数々の失敗をしています。

そして、それでも努力をする人であることがわかります。

 

信長は最終的には挫折者です。

しかし、必死で努力して強敵たちに勝ち、最後に挫折しました。

人間味あふれる人物です。

正義感が強い働き者という生き方、私たちも信長から学ぶべきかもしれまんせんね。

 

参考図書

倉山満『大間違いの織田信長』(KKベストセラーズ、2017年)