ロシアの法則

ロシアの歴史を学んででみると、

色々な法則が見えてきます。

 

 

ロシアの法則

法則1:何があっても外交で生き残る

法則2:絶対に二正面作戦はしない

法則3:弱い奴は潰す

法則4:受けた恩は必ず返す

 

法則1:何があっても外交で生き残る

 ロシアは意外と戦争に強くありません。

しかし外交を巧みに使って生き残ろうとします。 

 

・1700年〜大北方戦争

大北方戦争スウェーデンポーランドデンマーク

ザクセン(当時ドイツという国はない)、モスクワ(ロシア)、

これら諸国が争った戦争です。

ロシアはスウェーデン相手に大軍で戦うも、敗れています。

しかしスウェーデンは戦争の止め時を誤ったため、

結果的に敗北します。

 

モスクワは勝ち組に乗ることで、戦争を乗り切ります。

1721年ニシュタット条約でモスクワは、

バルト海制海権を確保し、ヨーロッパの大国に上り詰めます。

 

 ・ナポレオン戦争でも負けている

ロシアは1805年アウステルリッツの戦いで、

ナポレオン率いるフランス軍に大敗しています。

さらにナポレオンが攻め込んだときに、

モスクワを捨てて逃げだしました。

逃げる場所ならシベリアにいくらでもあるのが、

ロシアの強みです。

その後、冬が訪れてナポレオンが撤退した後に追撃します。

ロシアが上手なのは、追撃後のプロパガンダです。

「冬将軍は強い(ついでにロシアも強い)」、

「ナポレオンは無敵ではない」など。

 

戦いに強くなくても戦い以外の部分で、

勝利を得ようとするのがロシアです。

 

ノモンハン事件ソ連の大勝利? 

1939年ノモンハン事件は日本軍はソ連赤軍の前に惨敗した、

と言われていました。

しかし冷戦後の資料公開で、

実際はソ連の方が遥かに甚大な被害を出していた、

ことがわかりました。

当時の外交交渉ではソ連側が甚大な被害を隠し通したため、

「日本軍の惨敗」だけが表にでました。

 

実態は「日ソ双方の大敗」だったのを相手の大敗に見せる、

外交で生き残るロシア(ソ連)の知恵です。

 

法則2:絶対に二正面作戦はしない 

 

・1904年日露戦争

ロシアは日露戦争の前年に、

それまで対立していたオーストリアと手を組みます。

日本の小村寿太郎外務大臣はロシアがアジアに来ると判断します。

事実、満洲にロシア軍が押し寄せ、1年後に日露戦争が起こります。


当時の日本の指導者は、ロシアが多方面で攻めてこないことを、

知っていたことがわかります。

 

・1941年独ソ戦

1941年にドイツ軍が突如ソ連に攻め込みます。

独ソ戦の最中、ソ連満洲に攻めることができませんでした。

理由は、日ソ中立条約があったためと言われています。

しかし実際は満洲に日本軍70万の大軍がいたためです。

 

事実、ソ連はドイツに勝ってから、戦争で兵力が少なくなった満洲を、

攻め込んでいます。 

 

法則3:弱いやつは潰す

 

・1683年〜第二次ウィーン包囲

 ハンガリーで反乱が起き、反乱者たちはトルコに援助を要請しました。

オスマン・トルコ帝国は大軍を率いてウィーンに進撃します。

これに対して、フランス以外のヨーロッパ側は神聖同盟を結びました。

モスクワ帝国(当時のロシア)はポーランドの誘いで、

同盟に加わります。

 

ウィーン包囲の結果、トルコが同盟に負けました。

ヨーロッパがアジアに初めて勝ったできことです。

ここでモスクワはトルコに狙いを定めます。

「当時最先端の地域だったトルコが弱みを見せた」、

これをきっかけに10回以上トルコに戦争を仕掛けるようになります。

 

 ・シベリアへ領土拡大

ロシアは当時、ほぼ無人の荒野のシベリアに出兵していきます。

他の地域で勝てる国がなかったためです。

ロシアはシベリアの村々を略奪しながら、

東に進んでいきました。

最終的に清朝ネルチンスク条約を結び、東の国境を決めました。

その後は南下しカムチャツカへ、

海を渡りアラスカに進出します。 

 

・1945年ソ連参戦

ソ連は日ソ中立条約を反故にして満洲に攻め込みました。

当時の日本は、徳川茂徳外相を中心にソ連を仲介とした和平模索していました。

戦況の悪化により、戦争を続けることが難しくなったためです。

しかし、弱い国と話しをするソ連ではありません。

 

その時のソ連はドイツとの戦いが終わり、

アジアに戦力を出せる状態です。

さらに日本は戦争によって疲弊しています。

ソ連にとって日露戦争のリベンジをするチャンスでした。 

法則4:受けた恩は必ず仇で返す

 

・3回にわたるポーランド分割

元々モスクワはアジアとして数えられていました。

そこへポーランドがモスクワをヨーロッパとして招き入れました。

ウィーン包囲をしていたトルコと戦う味方を増やすためです。

モスクワとポーランドは1686年永久平和条約を結び、

モスクワは神聖同盟に加盟します。

 

しかしその後ポーランドは、1772年、1793年、1795年の3回に渡って、

ロシア、プロイセンオーストリアによって分割されてしまいます。

自分をヨーロッパの味方にしてくれた恩を、

仇で返した形になります。  

 

終わりに 

 ロシアの歴史を学んでみると、

したたかに生き延びる術が見えてきます。

企業の戦略にも使える術だと思います。

 

例えば「二正面作戦はしない」ことは、

事業を多角化せず1つの事業に専念する、

ことにもつながります。

また「弱い奴は潰す」ことは、

自社が勝てる競合を見極めて戦っていく、

ことと考えられます。

 

その国の歴史から学べることはたくさんある、

と感じる次第です。

 

参考図書

倉山満『嘘だらけの日露近現代史』(扶桑社、2015年)